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体験する前に見切る人たち? ~体験に基づかない知識は人を惑わすものとなる~

新年度がスタートして皆様いかがお過ごしでしょうか。

個人的には、この時期の気候がとても好きですね。寒くなく暑くなくちょうどよい塩梅・・・週末はそんな天気で心地よかったので、子どもたちと自宅の庭でBBQをやって楽しい時間を過ごすことができました。

さて、新社会人になった方も多く、今年の入社式等をニュースで見ると、コロナ以降のスタンダードの時代への突入なのかなと感じることができます。

そんな新社会人にとって、YoutubeやSNSを通じて、いくらでも情報が簡単に入手できる日常は当たり前だと思うのですが、かれこれ20数年前・・・私が社会人になりたての時代は今のような当たり前が日常ではなく、情報の量と質を確保するには、それなりの労力をかける必要がありました。

たくさんの情報量をたやすく手に入れることができる新社会人にとって、すごくメリットのある世の中になったことは間違いないと思います。しかし、その反面で生じるデメリットも考慮する必要があるのかなと。

先日、ふとYoutubeのインタビュー番組を見ていたら、有名な社会学者が発信していたフレーズが気になりました。

『体験する前に見切る人たちが増えている』

確かに、情報過多の時代の中で、何かを体験する前にそこにまつわる情報を検索してみるという行為は、多くの人たちの当たり前になっています。ヒットした数々の情報からその何かを体験した人たちの意見や感想をインプットすることで自分の判断の参考にする。

わかりやすい事例で言えば、どこかの飲食店に行こうかなと思ったら、そのお店の口コミやら評判をチェックしてから、どうするかを判断する人は多いでしょう。視点を変えれば、口コミや評判の高いお店を検索して、そこに行くという選択をしている人も多いでしょう。

でも、それらの情報はあくまでもその他大勢の人たちの主観であって、自分自身が実際に体験、経験してリアルに感じ取った印象ではない。もちろん、その他大勢の人たちの口コミや評判の傾向を知ることは多いに参考になるとは思いますが、それを完全なる自分の中の正解としてしまうのか・・・というお話。

自分の経験則で絶対的に思っていることは、ネット上にある多くの情報には正しくない情報もかなりたくさん氾濫しているということ。誰かが勝手に情報操作をしているし、誰かが勝手に自分の思い込みの情報を発信している場合も多い。でも・・・

『体験値と経験値がない人は何が正しいのかがわからず常に不安だから、誰かが発信している自分にとって都合の良さそうな情報を正しいと思い込むことで安心しようとする。』

そんなへんてこりんな情報循環が今まさに起こっているのかなと思うわけです。

その情報が正しいのか間違っているのかはわからずとも、情報過多の時代の中でちょっと調べてたまたま網に引っかかった情報を鵜呑みにして、わかったつもりでいる人はとても多いのではないでしょうか。

『多くの人たちをわかったつもりに導いてしまう』

それが、今の情報過多時代の現実であり、1つのデメリットかなと。

かつて、ここまで情報が簡単に手に入らないからこそ、”わからないことはまずやってみよう”という精神が成立していたことは、人間の成長にとてもプラスをもたらす環境だったのかなと思います。わからないからこそ、イメージしたり創造する時間も多く、まだわからないことにワクワク期待したり、願望を持てたりしたほうがよかったのかなと。

このような人間が創造する時間、期待する時間、願望を持つ時間は、もしかしたら情報過多の時代の中でだいぶ削減されているのでないか、奪われているのではないか。そうなふうに思っています。その状況に巻き込まれる中で、『体験する前に見切る』という現象が多くの人たちの中で発生していることになる。これは少し残念な現象かなと思いますね。

『体験値と経験値がないから、匙加減(さじかげん)がわからない』

その社会学者は、今、子どもや学生をちゃんと叱れない親や教師が増えているとも言っていましたが、私もそれは幼児教育の現場やプライベートで遭遇する場面で強く感じていること。これも情報過多時代の変化なのでしょう。

『パワハラ』とか『モラハラ』とか『セクハラ』とかいわゆるコンプラ違反に対する情報発信は以前よりも明らかに増えています。もちろんそれが理由となって、叱るという行為に対するリスクヘッジをとっている人たちが増えている。でも、これも先ほどお伝えしたように、叱る自信がない人達にとっての、ある意味都合の良い情報??なのかもしれませんよね。

それに加えて、上述したように・・・

『体験値と経験値がないことにとって、自分がとった行動の余波がどうなってしまうかを予期する力が欠如している』

のが大きな原因だと私は思っています。

体験値と経験値から感覚的に学んできている人間は、何かをするときの然るべき匙加減を体得しているということ。それは体感覚で身に着けたものだから、限りなく正解に近い。

それを自分以外の誰かが発信している情報で穴埋めして自分のものにしていくのは非現実的であって、いざというときには、うまく対応することは難しい。自分では良かれと思っていても、その場面ではあまり適切でない対応になってしまう。もしくは、いざというときに動けずフリーズしてしまう。

日々の中で接点を持ち、少しお話させていただく人たちの中で、ご自身の体験値と経験値が少ないが故に、自分の中で絶対的な信念や価値観が培養されず、その都度、入手した良さそうな情報に自分の感覚を委ねているだけなんだろうなと感じてしまう方に遭遇することもあります。残念ながら、話をすればするほど、言葉は悪いかもしれませんが”薄っぺらい感じ”がしてしまい、個人的にはだんだんつまらなくなってしまう・・・

『インターネットやSNSの中で答えらしきものは見つかるが、そのままは使えない』

その情報を参考にしながら、まずは自分で体験、経験した上で自分事として整理整頓することが大切なのではないでしょうか。そうすると、実際にいざというときに”使える情報””使える知恵”に転換されていく。わかったつもりからわかるへのプロセスはそこが大切ですかね。

最後に、私が20代のころに尊敬する上司からいただいたメッセージをご紹介

 

体験から生まれた知識は人を動かす力を持つ

体験に基づかない知識は人を惑わすものとなる

そして知識は活用するチャンスを経て知恵となる

 

やはり、体験に基づかない知識で人を惑わしてしまう人にならないように、自分勝手に見切りをつけず、まずは自ら体験することを大切にしたほうがよさそうですね。とても便利で素晴らしい情報過多時代だからこそ、私も気を付けたいと思います。

お読みいただいた方の何かのヒントと未来のハッピーに少しでもつながれば幸いです。

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